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現地で活動した学生の声

 活動の帰り道、突然知らない番号の電話が入りました。8月に宮城県唐桑町大沢での活動の際に出会った星さんの息子さんからでした。

 星さんのお宅は海岸にとても近い場所にあり、寝たきりの旦那さんと2人で生活していました。地震のときは自宅にいたそうで、80歳の星さんは旦那さんを背負って逃げることなどできず、一人で山に逃げたのだそうです。津波後、自宅へ戻ると家は流され、旦那さんは亡くなっていました。

 星さんの生きがいだった畑も流された船などで瓦礫の山となり、さらに雑草が1mほどの高さまで伸びていました。そんな時、私たちに依頼が入り、13次隊の学生60名が3日間かけて瓦礫の撤去と草取り作業を行いました。後日、星さんの畑に行く機会があり訪れると、重機が騒音を上げながら瓦礫の撤去を行っている場所の、真ん中にある小さな畑に、ホウレンソウとレタスの小さな葉が顔を出していました。息子さんは、星さんから私たちの話を聞き、「母が生き生きしていて、とてもうれしい」というお礼の電話をかけてくれたのです。思わず、声が詰まり、涙が流れました。

 私たちはたくさんの災害現場で活動をしていますが、そこには、それぞれ悲惨な現実があるのだと思います。しかし、私たちはそれらの詳細を知る機会が余りありません。仮にそれを被災者に聞くというのは、悲しみを思い出させてしまうということもあります。

 ですから、被災者が語ってくれるまでは、被災状況については聞かないようにしています。ただ、私たちは、津波で家を失い、物心ともに多くのものを失った被災者のことを、自分に置き換えることで、その痛みの一部は理解出来ていると思います。だから、目の前のことにベストを尽くせるのです。そして、それが被災者を元気づけ、笑顔になってくれると信じているのです。これからもこの想いを忘れずに活動しようと思いました。

 (国士舘大学4年 出月 ちひろ)


B Back Camera


 私は5次隊が初参加でした。不謹慎かも知れませんが、現地の被害を生で見ればきっと自分の中の考えは変わるはず。そう思って活動に参加しました。現地で活動してみて、現地の方々と話してみて、確かに自分の考えは変わりました。私は東日本大震災が起きたという実感を1ヶ月遅れて得たのです。

 15次隊に参加した時に、津波が直撃した地域の住職さんがある言葉を掛けてくれました。

 「ここには何もないだろう?ここには津波が来る前には家が100軒くらいあったんだよ。こんな場所を見た君だからこそ、これから君の人生にどんな辛い事があっても生きていって欲しいな。だから自殺なんて事はしないでくれよ」この言葉を聞いた時はいい言葉だな、としか思いませんでした。

 15次隊から帰ってきた1週間後…同級生が死んだと、突然メールで知らされました。同じ大学、同じゼミ、同じサークルの努力家の優しい子でした。正直、辛かったです。彼女が死んだという事実を理解するのに時間が掛かりました。普通に大学に行けば、その子に普通に会えるのではないかと思えました。

 その時、住職さんの言葉を思い出しました。住職さんも、自分の周りの人がお亡くなりになられていたのにあんな言葉を掛けてくれたのか…こんな気持ちなのに…あんな言葉を掛けてくれたのか…。そう思った瞬間、涙が止まりませんでした。何回も何回も涙を流しました。

 これからしっかり生きて行こう。これからも、気仙沼で活動しよう。そして、もう一度あの住職さんに会いに行こう。そう思いました。

 こんな自分ですが、気仙沼の皆さん、これからも気仙沼にお邪魔したいと思いますので、よろしくお願いします。

 (東洋大学2年 岡村 隼)


 私が現地に行って作業したときは、まだまだ瓦礫が広がっていて流れてきたものがそのまんまの状態の時でした。日本全体が復興にむかい前進しようともがいていた時だったと思います。「がんばって営業中」「ボランティアさんありがとう」そんな言葉がたくさん見られました。

 被災地で私がお手伝いさせてもらったお家には、小学生と小さい女の子がいました。がれきの中から取り出してきたまな板と包丁でおままごとをしていました。泥だらけのもので炎天下の中遊んでいる姿は、子どもらしくもあり、どこか切なかったです。

 そのお宅では大津波によって流され、泥とぐちゃぐちゃの山になっていた瓦礫を片づけるという作業でした。子どもたちも一緒に片づけをしていたのですが、山の中から「あ、おにいちゃんのおちゃわん!」「おかあさん、これここにあったよ」と、以前の思い出たちを掘り出していました。私たちも最初は「瓦礫の片づけ」と思いながら作業していたのですが、次第にこれは捨てていいもの?洗って使うもの?と、思い出の宝さがしになっていきました。

 今目に入ってくるものは間違いなく被災地でしたが、そこには人がいて、営みがあって、想いがあったんだということを強く感じました。がれき撤去が作業であっても、対象はモノではなく人間なんだということを感じました。

 実際に被災地に足を運ぶことは難しくても、どこかでなにかをしていたいという思いはずっとあります。もちろん実際に行くことができるのなら、わたしにできることをしたいと思っています。どんなことでもいい。私の国が元気になるなら、私と同じ人たちが明るい気持ちになるのなら、どんなことでもやりたいです。

 (龍谷大学2年 越智 萌)


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 私は、9月にあった15次隊の災害救援活動に参加しました。ちょうど、震災から半年が経っていました。正直、初めて光景を見たときは復興には時間がすごくかかると感じました。道は整備されていましたが、手つかずの家やがれきの山があちらこちらにありました。でも、何軒かのお家で活動させてもらって大切なことに気が付きました。それは、住民の方がとても前向きで、東北を良くしようと様々な活動をしておられたことです。

 また、これからしたいことや震災の事について話してくださいました。私は、その前向きな姿勢を見て自分ももっとできることをしないといけないと感じました。それと同時に、たくさんの前向きな人たちを見て復興への光が見えた気がしました。

 まだまだ大変な被災地だけど、僕らも一緒になって復興への一歩を歩んでいければと強く思いました。

 僕にとって、幼稚園の園庭での清掃活動が一番印象に残っています。

 園庭での清掃中、多くのことを発見し、感じました。生え方がおかしな雑草が多くありました。根っこが垂直ではなく、水平になっているのです。おそらくこれらの雑草は津波で流されてきて再度この園庭に根を張ったものでしょう。そして、鉄柱が大きく折れ曲がり、14:46で止まっている時計。幼稚園は津波をかぶったまま、ほとんど復旧はされていません。

 私たちが作業している空間が、当時のままで時間が停止しているような錯覚を感じました。

 しかし、すぐ隣の小学校では、一時的に園児がそこで普段の生活をしています。園児や小学生の元気な声が聞こえてきます。“今”という時間がそこには流れていました。ひとつの空間に、ふたつの時間が流れているように。

 「一度はあきらめたけれど、今年の運動会をこの園庭でしたい。ありがとう」という園長の言葉。自分は“微力”だけど、“無力”じゃないな、と感じました。

 (立命館大学1年 元原 悠貴)


※大学・学年は2011年時のもの